入江 加月
製本代が欲しい自由人

邪馬台国について
Please buy my Document !
Document : Here is queendom of Queen Himiko of the third century ( Only as for the Japanese edition )
本居宣長時代の邪馬台国九州説から現在まで、邪馬台国の場所が不明。
最近では、近畿説が有力候補で箸墓古墳等が知られる様になりました。
私は、「魏志倭人伝」から、誰もが納得頂ける、邪馬台国の場所を
確定致しました。ところが、単なる考古愛好者の趣味の世界から脱し
切れません。無名ならば、本ホームページを立ち上げよう、というのが
きっかけです。製本して世に出したいのですが、400万円という大金は
有りません。少しづつ売却したり、寄付を募って、製本・出版を考えて
ます。邪馬台国の場所に付、歴史的終焉を希望しており、皆様のご支援
をお願い申し上げます。
魏志倭人伝に記載されているルート
対馬 ~ 壱岐 ~ 末廬国 ~ 伊都国 ~ 奴国 ~ 不弥国 ~
(松浦市) (糸島市) (春日市) (粕屋郡宇美町)
投馬国 ~ 邪馬台国
この不弥国から 投馬国 ~ 邪馬台国 の2国所在地不明
●なぜ、末廬国 ~ 伊都国 ~ 奴国 経由なのか
(魏の訪問目的) 朝貢実績がある倭国の国王謁見
末廬国 : 魏の使節受け入れ連合国へ連絡
伊都国 : 西暦107年倭国王の国謁見
奴国 : 西暦57年漢委奴国王の国謁見
邪馬台国 : 倭国女王 卑弥呼謁見
●なぜ、不弥国 経由で邪馬台国なのか
遠出は、徒歩よりマイカーでしょう (2年律令より1日10里行)
邪馬台国は遠い旅となります。魏のお客様は、徒歩ではなく、マイカー
でご案内するのが、良いでしょう。マイカーとは、船の事です。
粕屋郡宇美町の宇美川から出発して、一気に邪馬台国近くまで、水行可能。
不弥国 ~ 宇美川 ~ 宝満川 ~ 筑後川 ~ 投馬国(大分県日田市)
~ 三隈川 ~ 大山川 ~ 蜂の巣湖 と邪馬台国近くまで、水行できる。
●最後の陸行
蜂の巣湖 ~ 小国町(熊本県) ~ 南小国町 ~ 大観峰 ~ 邪馬台国
結論
投馬国 : 大分県日田市
邪馬台国 : 熊本県阿蘇市
●志賀島の金印
漢の倭の奴国王と読まれているが、正しくは漢のいと国王。
金印は帝➡国王であり、国王の下の者には与えない。与えるとしたら銀か銅印。
西暦57年頃、青銅器の武器で奴国は他国より強大であった。福岡県糸原地区は、
奴国だった。しかし西暦107年頃には、伊都国が鉄器の武器で奴国を圧倒。
福岡県糸原地区は、伊都国となった。
奴国王は金印を手にしたが、日本初の倭国王はもらえなかった。
光武帝と安帝の違いは有るが、同じ後漢で、イト国の為金印は手にできなかった。
我こそが金印を持つのに相応しいと考えた伊都国王は、金印を奪おうと、
奴国を攻めた。奴国は逃げた。金印を渡すものかと志賀島に隠し埋めた。
江戸時代に金印が発見され、福岡藩黒田家保管となった。
この金印 のつまみが蛇だった為、永く偽物扱いだった。中国で確認される金印は、
亀かラクダであり、蛇は例がなかった。近年、中国テン王の墓から蛇のつまみの
金印 が見つかり、形状・成分が同じだった為、本物と認定され国宝となった。
●卑弥呼死す
西暦248年卑弥呼死す。70歳を超える高齢・霊力低下・戦況進展なし・長期
政権の緩み、追討ちをかける西暦247年3月24日の皆既日食。決定的な翌年
248年9月5日の2年連続の皆既日食。とても信じられない不吉な事象発生。
卑弥呼降ろしに動き、卑弥呼は責任を取って自害。
径100余歩の塚に埋葬。と魏には報告。径100余歩は約150m程の円墳。1説
では、25mの円墳と言われる方もいますが、倭国女王の墓が25mでは、
魏に不審に思われる、魏の支援が得られなくなる。魏の使節には施工始めを
見てもらうが、施工は完了しない。今はクナ国との戦争中で、余裕がなかった。
魏が認定した倭国女王の墓は造りませんでした、とは絶対に言えなかった。
罪人同様の卑弥呼に対し、連合国の王達は冷たかった。
伊都国王はこれを深く悲しみ、卑弥呼を伊都国(平原)で埋葬した。
あまりにも偉大過ぎた卑弥呼の業績を称える証拠として、伊都国王は
中国でも作れない、八咫(直径46.5cm)鏡(内行花紋鏡、国宝)を奉納。
偉大さを後世に伝えると共に、深い悲しみを卑弥呼に伝えたかった。
これらの史実を元に、天照大神・天岩戸伝説・神器八咫鏡の話となる。

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